ナナちゃんへ置手紙

誇張はあるけど嘘はありません。イオンの女子トイレ扉うら。

今日の発熱

 11月9日にぼろぼろ流産後一週間で東京に行ってきた。新幹線の喫煙スペースで漁師のお兄さんからAKB48と伊勢海老に関するレクチャーを受けながら、なんでみんな孤独なんやろうなーとぼうっと考えて、ホテルがあるお茶の水駅(体調が良ければ神保町に行く予定でいた)に降りて、エスカレータもエレベータも工事中という事実に愕然としながら、痛む腹と一泊分の荷物を抱えて階段をのぼる。「流産して間もないのでなんとか助けてください」とはなかなかひとに言われへん。東京の妊産婦さんは通勤もたいへんなんやろう。塾通いのため前回まで泊まっていた銀座・築地エリアも含めて、ただでさえ道はがたがたしているし、道のアップダウンは激しいし(横浜・川崎エリアはもっとひどい気がするけれど)、これで「女性らしい」服装をしてこいと言われた日には私は見えない誰かを恨むよりほかない。電通の子の気持ちを思うと、総武線で隣に立っている女性より共感が出来る気がした。「袖振り合うも他生の縁」と言うけれど、なんだか電車の中にそんな空気はない。

 見えない誰かを恨むというのは結局テロリストの心性と同じで、もう死ぬ以外にやりようがなくなってしまうことなのやと思う。「誰も自分を分かってくれない」という感覚は人を殺すし人を殺させる。自殺とテロリズムの違いは、それがどの方向を向いてしまうのかという違いしかない。日本の若年層の死因第一位は「自殺」だとよく言われているけれど、日本の治安が他国に比べて良いというお話は日本人が社会的に自制・抑圧の方向を見させられているからだけにも思える。

 これを書いている今日も、京都市内のスーパーで店員の女性が男性に刺されるという事件があった。知人が住んでいるごく近所での事件であったせいもあるけれど、最初に思ったのは「また女の人がターゲットにされた」ということで、夫と一緒に常々疑問に思っている「矢ガモ」の話をしているうち、なんやらすごく悲しくなった。以前駅で女性ばかりを狙って体当たりを繰り返す男性の動画があったけれど、どうも日本では弱いほう弱いほうへ社会的な抑圧の捌け口が向いていくように見える。盲導犬をフォークかなにかで刺したり。

 私はいま精神障碍者三級なのだけれど、厚生労働省障碍者雇用水増しなどを見ていても、仮に夫が先に死んでしまったら「普通に」働ける気もしないし生活保護を受けられる気もしない。健康にどれほどの価値があるのか、今更ながら考えるけれど、好きで健康を失ったわけではない。好きで「普通の」道を外れたわけでもない。好きで両親と縁を切ったわけでもない。そういうことを考えていたらやっぱり38℃くらいの熱が出てくるので、なんやら朦朧としながら、冷えピタ貼りながら、とりあえず今日の記録として書いておく。

 はよせな記憶はどんどん薄れていくものやなー、と毎日思っている。